大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京家庭裁判所 昭和49年(家)6830号 審判 1975年8月12日

国籍 アメリカ合衆国ニューヨーク州

住所 東京都港区

申立人 クリスチナ・ハーウェル

国籍 アメリカ合衆国ニューヨーク州

住所 東京都世田谷区

相手方 ウイリアム・デビッドソン

国籍 アメリカ合衆国ニューヨーク州

所在地 アメリカ合衆国オレゴン州

事件本人 キャサリン・デビッドソン

一九六六年一月一〇日生

主文

(一)  本件当事者間の当庁昭和四八年(家イ)第四三三四号夫婦関係調整調停事件(申立人クリスチナ・デビッドソン相手方ウイリアム・デビッドソン)につき昭和四八年一一月一六日成立した調停の調停条項4項5項(申立人と事件本人との面接交渉に関するもの)を取り消す。

(二)  申立人と事件本人との面接交渉につき次のとおり定める。

(1)  事件本人キャサリン・デビッドソンが日本国外に所在し、相手方が第三者にキャサリンの監護を委託し、もしくは相手方自らがキャサリンを監護している場合、申立人はあらかじめ監護者である相手方に連絡のうえ、相手方の監護権を侵害しない範囲で、キャサリンの所在する場所を訪問して同人に面接することができる。キャサリンが日本国内に所在し、相手方に監護されている場合、申立人はキャサリンの希望に従い、相手方の監護権を侵害しない範囲でキャサリンと面接交渉することができる。後者の場合、当事者双方は東京家庭裁判所調査官の指導助言を受けることができる。いずれの場合も旅費その他の費用は申立人の負担とする。

(2)  当事者双方は、キャサリンが成人に達するまで、互いにその住所およびキャサリンの所在を常に明らかにしておくこと。

理由

申立人は「事件本人の監護者を相手方から申立人に変更する。相手方は申立人に対し事件本人を引き渡せ。相手方は事件本人の監護養育および教育の費用を分担する。」との審判を求めた。その申立の実情は次のとおりである。

一  申立人と相手方は一九六五年四月二一日アメリカ合衆国において結婚し、翌一九六六年二月二五日両名の間に事件本人が生れた。相手方は再婚であり、先妻亡橋洋子との間の長女マドレーヌ(一九五九年一〇月六日生)があつた。

二  申立人と相手方は東京家庭裁判所昭和四八年(家イ)第四三三四号夫婦関係調整調停事件の昭和四八年一一月一六日成立した調停により離婚し、その際、事件本人の監護者は父である相手方と定められ、申立人は原則として月二回週末に事件本人を手許に連れ帰ることができるものとされた。

三  母である申立人が、当時七歳の女の子である事件本人を、父である相手方の監護に委ねることに合意したのは、申立人は当時友人宅に寄寓している身であり、友人夫妻との関係からも事件本人を引き取ることが困難であつたためと、相手方が事件本人を適切に監護養育してくれるものと信用したからである。

四  しかるに、その後の相手方の事件本人に対する養育状況は次のとおりであつて、申立人は母として寒心に耐えない。

(1)  右調停においては、相手方が事件本人のためハウスメイドを雇い入れて家事を担当させることとされているのに、相手方は午後四時ころから午後七時までというパートタイムの女子学生を雇い、それもすぐやめられてしまつたし、また週末のみメイドを雇い、週日は事件本人の面倒を見る者がいないという状況である。

(2)  申立人は、事件本人の通つているアメリカンスクールの教師から、最近の事件本人は路装がだらしなく、学校には始終遅刻し、成績も下がり、態度も粗暴になつたと注意を受けている。また、事件本人が学校から帰宅しても相手方宅には誰もいないといつて、申立人に電話で泣いて訴えてくることもあつた。

五  相手方は、前記調停で定められた申立人と事件本人との面接交渉を種々の口実を設けて妨げた。例えば、申立人が相手方はあらかじめ連絡のうえ金曜日の放課後に事件本人を迎えに行くと、その前に相手方が学校へ行き事件本人を早退させて連れ去つてしまうということがあり、絶対に申立人を事件本人に会わせないといい、調停で定められた面接交渉自体を拒絶するに至つた。

六  申立人は、前記調停成立時とは異つて住所も定まり、調停成立のころ知り合つたスエーデン国籍で日本にあるスエーデン系の会社に勤務するルイ・ハーウエル(一九四二年七月二〇日生)と再婚することになつた。同人は機械類を取り扱う貿易会社のエンジニアであり、収入も十分で、生活には全く不安はなく、申立人が事件本人を引き取ることに同意している。申立人は今後は家庭にあつて、主婦として又母として、十分事件本人の監護養育に当ることができる。両者は昭和四九年五月一八日東京スエーデン大使館において結婚式を挙げ、公式の結婚証明を得た。

七  相手方は昭和四九年一月三一日、相手方と同じ株式会社○○の国際広告制作室に勤務していた友田葉子(昭和二三年一二月二五日生)と結婚した。そして同年八月二〇日相手方と葉子、マドレーヌ、事件本人キャサリンの一家四人は九州一周旅行に出かけた。葉子は、その帰路、八月二九日午前〇時一〇分ころ、岡山県倉敷市内を進行中の上り寝台特急あさかぜ3号のドアの緊急用コックを開いて飛び降り、線路わきの電柱にぶつかり即死した。新聞報道によれば、葉子は車内で先妻の子供の進学問題について相手方と口論、発作的に飛び降りたとのことである。

八  葉子は相手方との同居中、三日にあけず暴力を振われており、それも平手打ちとか、こづく程度のものではなく、相手方は小柄な葉子を持ち上げてドスンと投げつけたり、革ベルトで打つこともあつた。葉子は昭和四九年二月中旬ころ妊娠二か月で流産しているが、その原因は相手方に投げとばされたことである。同年六月一七日葉子は相手方の仕打ちに耐えかねて家出し、実家に数日間帰つたことがある。相手方は事件本人に対しては暴力を振るつたことはあまりなかつたようであるが、マドレーヌに対しては再々暴力を加えている。革ベルトを使用することもあつたらしい。そのためマドレーヌは相手方を非営に畏怖し、相手方に言葉で叱られただけで激しく泣くことが多かつた。

九  二人の子供が通学していた○○・インターナショナル・スクールの授業料は、昭和四八年度で一人につき年額四〇万円、施設管理費五万円、スクールバス八万円、給食費六万八〇〇〇円(任意)、その他会費学校保険等三〇〇〇円くらいであつた。相手方が勤務先から受け取る月給は約八〇万円で、所得税その他を控除された手取りが五二万円くらいであつたが、相手方は葉子に一度も給料の額を教えたことがなかつた。相手方は毎月二三万円を葉子に渡して家計全部をこれで賄うようにと言つた。家賃一三万円のうち自己負担が三分の一で約四万三〇〇〇円、残りの金で生活程度も様式も日本と違い、かつ食べ盛りの子供二人をかかえて到底やつて行けないが、相手方に訴えても、無駄使いをするからだと言つて全然取り上げて貰えなかつたという。葉子はしばしば実家に金を借りに行き、九州旅行に出かける前日の八月一九日夜も実家の母に子供たちの下着を買つてやる金がないと言つて二万円を借りている。

一〇  相手方は自己のエゴのみを通そうとするなど、協調性、柔軟性に欠け、妻子の人格など認めず、すぐ暴力に訴えるという粗暴な人格破綻者である。子供の教育についても、一方ではむやみに折檻し一方では甘やかすという、確たる信念も方針もなく、事件本人の親権者、監護者として失格である。現在、相手方は事件本人およびマドレーヌをアメリカの実兄方に預けているが、相手方の監護権に基づいて養育を委託しているにすぎず、いずれは相手方が引き取ることが明らかである。

相手方は次のとおり主張した。

一 相手方と申立人とが離婚するに至つた原因は専ら申立人にある。相手方は申立人との婚姻中の八年間、絶えざる暴言にいじめぬかれ、つばをはきかけられ(その回数は数百回に及んだ)、ペンキをぶちまけられ、植木鉢を投げられ、その他あらゆる罵詈雑言の中で忍耐を重ねてきた。このような罵詈雑言は相手方に対してだけでなく、長女マドレーヌにも同様に加えられた。一例をあげると、一九七二年(昭和四七年)五月一九日、申立人はマドレーヌをベルトで顔といわず身体といわず殴りつけ、遂にバックルが右目にあたり、マドレーヌは殆ど失明状態になつて二週間の病院通いを余儀なくさせられた。申立人は当時一二歳のマドレーヌに対し、ボールが当つたと相手方に嘘を言わせていたので、相手方はそのことを知らなかつたが、前記調停になつてからマドレーヌが真相を打ち明けたので、ようやくこれを知つた。

二 申立人は相手方がケチであるというけれども、食費だけでも少なくとも週二万円程度はつかつており、また夫婦共同の小切手口座を持ち、申立人は自由に金を引き出せるようになつていた。事件本人の入学すべき学校についても、申立人の希望を入れて○○インターナショナルスクールに入学させ、また申立人を日本語学校に入学させるなど、相手方は自分の小遣いを切りつめても、妻子のためには能うかぎりの出費を惜しまなかつた。

三 申立人は一九七三年(昭和四八年)四月、事件本人とマドレーヌを相手方のもとに残して他へ去つたが、子供たちは父親である相手方を申立人よりもはるかに強く愛していたので、二人とも相手方のもとで、はじめて平安で幸福な生活を送ることになつたのである。

四 申立人は前記調停中の昭和四八年初めころから、レイ・ハーウエルとひそかに情を通じ、その子を胎内にやどして同棲していた。調停成立ののち、事件本人との面接交渉権に基づいて連れ出すのはその同棲先であるが、ルイがこれをよろこばないので、友人であり、右調停申立の当時申立人が身を寄せていたというミルン方に事件本人を預けたまま、申立人ひとりルイとの生活を享楽していたことがしばしばであつた。またルイが事件本人を好まないため、申立人はその意を迎え事件本人に対する叱責を繰り返していた。

五 右調停において申立人は形式的に事件本人の引取りを求めたが、慰籍料をいかにして獲得するかがその主眼であつた。相手方は申立人がルイとひそかに通じていることを知らず、昭和四九年一月にはアメリカ合衆国ないしは申立人の出身地である韓国に赴くものと信じていたので、申立人の要求を容れて慰籍料を支払うこととしたほか、相手方としては事件本人が時に母である申立人と共に過ごすことがその幸福であり、将来のために有用であると考えたので、面接交渉の条項に合意したのである。

六 相手方は友田葉子と結婚するに際しても、右のような事情を説明し、葉子もこれを諒承し、子供二人の養育にあたる決意をかためたのである。しかるに申立人はその後も日本に止まり、事件本人を連れ出したり相手方のもとに電話してきたりしたので、葉子は相手方が嘘言を弄したかのように誤解し、相手方に対し不信の念を抱くようになつた。相手方と葉子との婚姻生活の破局も申立人の心ない行動に一因がある。葉子が流産したような事実はない。葉子は相手方との婚姻後まもなく懐妊し、相手方は大いに喜んだのであるが、葉子の親(特に母親)が相手方との結婚に反対であつたことから、葉子に対し強く中絶を迫り、葉子も結婚後まもないことであり、先妻の子供二人をかかえ養育に自信がなかつたことから、中絶を希望するようになり、相手方もやむなくこれに同意して中絶に至つたものである。

七 相手方は申立人との離婚につき多額の慰籍料を払つたため、それまでの貯えも全部これにつかい生活に余格がなかつたことは事実であるが、これは申立人に基因するものである。二人の子供の授業料は生活費とは別に相手方が支払つていた(月々支払うものではない)。

(本件の経過)

以下に摘示する事実は、特に証拠関係を掲げたもののほか、後出当庁昭和四七年(家イ)第七五二〇号夫婦関係調整調停事件(申立人クリスチナ・デビッドソン、相手方ウイリアム・デビッドソン)、昭和四八年(家イ)第四三三四号夫婦関係調整調停事件(申立人クリスチナ・デビッドソン、相手方ウイリアム・デビッドソン)、昭和四九年(家イ)第一二七二号子の監護に関する処分調停事件(申立人ウイリアム・デビッドソン、相手方クリスチナ・デビッドソン)の各記録、本件審判移行前の昭和四九年(家イ)第一九七七号子の監護に関する処分事件記録(いずれも家庭裁判所調査官の調査報告書を含む)および本件における双方当事者本人審問の結果を総合して認定したところである。

1  申立人は韓国京城で生れた。韓国名は金慶英といい、○○女子大学校(四年制)を一九六一年三月に卒業、一年足らず会社に勤めたのち、一九六三年一〇月観光ビザでアメリカ合衆国に渡航した。そしてニューヨークのクイーンスカレッヂやニューヨーク大学の聴講生として勉強した。

2  相手方はアメリカ合衆国軍の軍属(下士官)として一九五五年七月日本に来て、はじめ沖縄、のちに北海道千歳に勤務し、一九五六年八月帰国して除隊となつた。一九五六年九月テキサス州のウェザーフォーディ大学の教養課程(文学経済)に入学したが、同大学に在学中に日本の国際キリスト教大学を受験し、転校のような形で一九五七年七月二〇日日本にきて右大学へ入学した。日本に関する専門家になろうと思い日本語を勉強し、日本史や日本文学を研究した。一九五八年二月一〇日橋木洋子と結婚式を挙げ、アメリカ大使館に結婚の届出をし、杉並区上荻窪で同居した。洋子は相手方より一歳年上であつた。一九五九年一〇月六日二人の間に長女マドレーヌが生れた。

3  相手方は株式会社○○に短期契約で勤めたが、一九六一年五月三一日契約期間が満了したので、洋子の父が権利を持つていた西荻窪の土地にビルを建てて貰い英語塾を開いた。相手方はそれまでに貯めた八〇万円を頭金にして資金を作り、机、椅子、テープレコーダーなどを購入し、教師七人を雇つて右英語塾を経営した。相手方自身は○○(広告業)に勤め、月収一五万円くらいを得た。そして借入金は一年一〇か月くらいで完済した。

4  相手方と洋子は一九六一年九月末ごろから別居し、相手方は鎌倉市に住んで○○に通勤した。一九六三年夏ごろ○○との契約期間満了に際し、相手方はアメリカに帰国してニューヨーク大学の大学院に入学した。洋子は一緒にアメリカに行く気はないというので、前記の英語塾は洋子や洋子の両親に譲渡した。マドレーヌは洋子のもとへ残しておいたが、洋子は一九六四年四月一七日死亡した。

5  相手方と申立人とは一九六四年三月ニューヨークの地下鉄の中で知り合つた。相手方は申立人を日本人と思い、日本語で話しかけたのである。二人は交際を続け、申立人は相手方のアパートを訪問した。まもなく申立人が相手方のアパートを訪ねたとき、相手方は妻が亡くなつたので日本にいる娘を連れに行かなければならないと言つて泣いていた。それで申立人は相手方に妻のあつたことを知つた。

6  相手方は直ちに日本に渡航し、マドレーヌを伴い帰り、カリフォルニア州に住んでいる相手方の長兄ロバート・デビッドソン夫妻のところに預けた。

7  相手方と申立人とは一九六五年四月二一日ニューヨークのリバーサイド教会で結婚式を挙げ、所定の結婚届出をした(結婚証明書による)。夫婦はニューヨーク市内のアパートで同居した。

8  一九六五年七月前記相手方の長兄の長男がテキサスで結婚式を挙げることになり、相手方と申立人はその結婚式に列席するためにテキサスに行つた。相手方の長兄はその際マドレーヌをテキサスに伴つたので、このとき申立人は始めてマドレーヌと対面した。結婚式が終つて相手方はマドレーヌを申立人に引き合わせたが、申立人はあらかじめそのことを聞かされていなかつたし、同夜申立人と相手方の間にいさかいを生じ、申立人は五日間ばかり附近の空屋で独りで暮し、結局独りでニューヨークへ帰つた。しかし鍵がなくてアパートに入れないので、約一か月友人のところに厄介になつていた。相手方はマドレーヌを直ちに引き取ることをあきらめ、テキサスの姉に預けて夏休みを過ごさせることとし、一応ニューヨークに帰り、申立人に連絡をとり同居の生活に戻つた。そのころ申立人は事件本人を懐妊しており、妊娠三か月目であつた。相手方は九月になつたらマドレーヌを引き取る心算であつたが、申立人との間にいざこざが続き、昂奮した申立人が自殺するといつて庖丁を持ち出したりしたこともあつたので、しばらくそのことを差し控え、その後申立人も落ちついてきたので一九六五年一二月のクリスマスの日に相手方はテキサスへ行きマドレーヌを引き取つてニューヨークへ連れて来てここに相手方、申立人、マドレーヌが家族として暮すことになつた。一九六六年二月二五日事件本人(キャサリン・デビッドソン)が出生した。当時相手方はニューヨーク大学の大学院在学中で、昼間はコピーライターの仕事をして夜に大学院へ行つた。

9  一九七二年(昭和四七年)四月、相手方、申立人、マドレーヌ、事件本人の家族は相手方の勤め先の会社から交付された無料の回遊切符で日本に渡航した。申立人はその機会に事件本人を連れて韓国へ帰省し、相手方はマドレーヌを連れて同月末アメリカへ帰つた。そのとき相手方は株式会社○○での仕事の契約ができていたので、韓国の申立人に電報でそのことを伝え、アメリカへ帰つでこなくてもよいからそのまま滞在するよう指示した。しかし申立人は韓国へは一寸の旅行の心算であつたし、切符も周遊券であつたので、韓国から直接ニューヨークへ帰つた。このことが相手方の不満の理由となつた。

10  一九七二年七月、相手方、申立人、マドレーヌ、事件本人の四人は改めて日本に来て、初め八日間くらいホテルに泊り、その後しばらく友人宅に止宿し、相手方は株式会社○○に勤めた。そして同年八月中ころ品川区旗の台△丁目△△番△△号に借家して入居した。マドレーヌと事件本人とは同区五反田の○○インターナショナル・スクールに(マドレーヌは中学一年、事件本人は小学一年)に入学させた。子供たちの入学に一一〇万円から一二〇万円を要したし、相手方が出費を押えることから申立人の不満は昂じ、一方相手方の帰宅が遅くなることについての不満などから、夫婦はいさかいを繰り返した。同年一一月一六日の夜から翌朝にかけてのいさかいでは申立人は相手方につばをはきかけ、相手方は申立人の顔を平手打ちにし、更に申立人は相手方のしていた革ベルトを抜き取つて立ち向い、これを押えようとする相手方との間にもみあいとなり、申立人は「右肋骨々折、兼胸部打撲」の傷害を受け、同月一七日品川区旗の台○丁目○番○号○○病院に入院し、同月二八日退院した(昭和四八年(家イ)第四三三四号事件で提出された診断書による)。

11  そのころ申立人は事件本人を連れてアメリカへ帰ることを考え、アメリカ大使館へ行つて相談したところ、離婚しなければその希望は実現できない旨教えられた。そこで申立人は法律扶助協会を通じて弁護士藤平国雄を知り、相手方との離婚手続を同弁護士に依頼した。申立人は退院後は韓国へ一時渡航し、同年一二月四日同弁護士は申立人の代理人として東京家庭裁判所に夫婦関係調整調停の申立をした(同庁昭和四七年(家イ)第七五二〇号事件)。申立人は一九七三年一月二〇日ころ韓国から戻り、一旦相手方のもとに戻つたが、同月二九日事件本人を連れて相手方のもとを出て、○○インターナショナル・スクールでの事件本人の同級生の母カナダ国籍エリーザ・ミルン方に同居した。

12  右調停事件は昭和四八年一月二二日(第一回)、二月一二日(第二回)、二月二二日(第三回)と調停委員会の調停期日が開かれたが、申立人と藤平弁護士との連絡が不十分であつたため、第一回と第二回は申立人本人は出席せず藤平弁護士だけが出頭した。相手方は各期日に出頭し、事件本人の親権を得られれば離婚もやむをえないとの意向を表明し、第三回は申立人本人も出頭したが、申立人は藤平弁護士との意思疎通が十分でなく、二月二三日みずから調停申立の取下書を提出し、右事件は終了した。

13  申立人はミルン方で家事手伝いなどをしていたが、相手方がそのような状態を好まずミルンに手紙や電話で抗議的申入れをしたので、申立人は相手方の勤務先○○の上司上田三郎に相談し、同年四月ころ事件本人を相手方のもとに戻した。その後申立人は学校へ行つて事件本人に会つたり、自分のところに連れてきたりして接触を保ち、相手方の留守中に相手方宅に会いに行つたりした。同年九月末ころ相手方は株式会社○○の借上社宅である肩書住所の家に移つた。

14  同年四月ころ申立人はアメリカ人の友人を通じてスエーデン国籍ルイ・ハーウェル(一九四二年七月二〇日生)と知り合い、同人の居宅である港区六本木○丁目○番○号○○マンション○○号室に出入するようになつた。そして同年七月二〇日申立人は弁護士桜木武、斉藤文彦を代理人として(委任状には相手方の住所としてルイ・ハーウェルの右住所が記載されている)東京家庭裁判所に再度相手方との離婚を求める趣旨の調停申立をした(同庁昭和四八年(家イ)第四三三四号事件)。調停委員会の第一回調停期日が同年九月一二日開かれ、相手方は弁護士松島泰と共に出席した。同年一〇月五日の第二回調停期日に申立人から<1>離婚、<2>事件本人の親権者を相手方とする、<3>申立人が週日中に二~三回、週末と日曜日に二回事件本人と面接交渉できるものとし、その費用二〇ドルを相手方が負担する、<4>申立人が日本以外の国において、事件本人が日本にいる時は年二回訪問するための旅費を相手方が負担する、<5>アリモニー一万ドルとの提案がなされ、相手方は<1><2><4>に同意したが、その余の点はなお保留され、家庭裁判所調査官に事件本人の生活状況、心理状況についての調査下命がなされた。

15  当庁家庭裁判所調査官石坂文子は○○インターナショナル・スクールや相手方宅を訪問して諸般の調査を行なつた。事件本人は学業成績もよく、基本的な躾もできており、異母姉マドレーヌとの折合も悪くない。申立人と相手方との間柄は決定的に悪化しているが、相手方とマドレーヌは事件本人の前では申立人の悪口をいうのを避けるようにしている。相手方は同年二月に新聞広告により某大学の女子学生を週三回午後七時から九時までマドレーヌと英語と日本語の交換教授をするということで頼んだことがあつたが、同年五月初め再び右女子学生とその友人である女子学生とに交替で毎日午後三時半から八時半までベビーシッターとして来て貰うことにした。しかし彼女たちの学業の都合などで毎日というわけにはいかない。大略以上のような状況のもとで、同調査官の所見として、申立人と事件本人との面接交渉の場は相手方宅以外の場所が望ましいこと、面接交渉の回数は奇数週の金曜日下校後から翌週月曜日の登校時までとするのが妥当であること、夏期休暇中の面接交渉は別途に取りきめること、マドレーヌへの心理的影響を考慮し、申立人とマドレーヌとの面接交渉をも合わせて取りきめることが望ましいこと等が報告された。

16  同年一一月九日の第三回調停期日に両当事者は離婚およびその条件につき大体の合意に達し、同年一一月一六日の第四回調停期日に次のとおりの条項により調停が成立した。

(1) 申立人と相手方は本調停により離婚する。

(2) 当事者間の子キャサリン・デビッドンンの監護者を父である相手方と定め、相手方においてその監護養育をする。

ただし、申立人はキャサリンが一四歳に達するまでの間は、相手方がハウンメイドを雇入れて家事を担当させることを希望し、相手方もその希望にそうよう努力する。

(3) 相手方は申立人に対し、離婚に伴う財産分与および慰籍料として金二七〇万円を、内金一三五万円は即時、残金一三五万円は昭和四八年一二月一〇日かぎり支払う。

(4) 相手方は申立人に対し、申立人がキャサリン・デビッドソンに面接交渉することを下記のとおり認める。

a 申立人は今後一か月に二回、原則として第二第四週の過末にキャサリンを自宅に伴い帰り、共に過すものとする。この場合、相手方またはキャサリンの異母姉マドレーヌが申立人と打合せた時間と場所(通常の場合は学校の放課時に学校において、特別の場合は午後五時に渋谷駅ハチ公銅像前)でキャサリンを申立人に引渡し、申立人は次の週日の初日に登校させることによつてキャサリンを相手方の許に返すものとする。

b 面接交渉に際し、相手方は費用として金五〇〇〇円を申立人に支払うものとし、この金額をキャサリンに託する。なお、マドレーヌもキャサリンとともに申立人と面接交渉することができる。

c 前各号以外にも、キャサリンが希望するときには週日でも面接交渉することができる。

(5) 当事者双方は、五にその住所を常に明らかにしておくこと。

前項の面接交渉については、申立人がアメリカ合衆国または韓国に帰国した場合は、キャサリンの夏季休暇期間内に行なうものとし(休暇期間外については前項と同じ)、この場合は申立人から相手方に連絡のうえ申立人が日本国へきてしかるべき方法で行なう。相手方は申立人の渡航費用として韓国からの場合は米貨二五〇ドル、アメリカ合衆国からの場合は米貨五〇〇ドルを申立人に支払うものとする。ただし、昭和四九年中の渡航についてはその支払いをしない。

17  右調停条項3の内金一三五万円は右調停期日に調停の席上で支払われ、残金一三五万円も所定の期日に支払われた。右調停条項4に従つて申立人は第二週第四週の週末に事件本人を学校から伴い帰つたが、その際はミルン方に預けたり、ハーウェル方へ連れて行つたりしていた。相手方は申立人主張のとおり昭和四九年一月三一日友田葉子と婚姻し、葉子は同年三月勤め先である株式会社○○を退職し、相手方と同居してマドレーヌと事件本人とも共に暮した。相手方は申立人がハーウェルと同居していることを知らず、申立人は近々のうちに韓国かアメリカ合衆国へ赴くものとの認識のもとに右調停の面接交渉の条項に合意したものであつたが、同年二月末ころ申立人が以前からハーウェルと同居していた事実を知つて激怒し、かつ、申立人がハーウェルとともに事件本人をスエーデンに伴い帰るのではないかと危惧して、同年三月第二週の金曜日には事件本人を学校から早退させて連れ帰り、爾後、事件本人を申立人のもとに行かせないようにした。申立人は昭和四九年三月一〇日ころから同月末日ころまで韓国に渡航していたのでその間は事件本人との面接交渉の機会はなかつたが、その後、事件本人との面接交渉を実現すべく弁護士藤沢彰にそのことを依頼した。そこで昭和四九年五月一七日弁護士藤沢彰は申立人の代理人として東京家庭裁判所に右調停条項4の事件本人との面接交渉についての履行勧告の申立をしたが、履行係調査官において事実関係調査に着手したところ、次項の調停申立に基づく包括事前調査が行なわれていることが判明したので、履行勧告は中止することとし、右事件は終了となつた。申立人はその主張のとおり昭和四九年五月一八日ハーウェルと法律上の婚姻した。

18  昭和四九年三月六日相手方は弁護士松島泰を代理人として東京家庭裁判所に「相手方(本件申立人)は申立人(本件相手方)が監護養育する当事者間の子キャサリン・デビッドンンと面接交渉してはならない」との趣旨の調停申立をし(当庁昭和四九年(家イ)第一二七二号子の監護に関する処分事件)、同年四月一〇日申立人は弁護士藤沢彰を代理人として「当事者間の子キャサリン・デビッドンンの監護者を相手方より申立人に変更する。相手方は事件本人の監護、養育及び教育の費用を分担する。」との趣旨の調停申立をした(当庁昭和四九年(家イ)第一九七七号子の監護に関する処分事件)。右両事件を併合して昭和四九年四月一六日、五月二八日、七月一六日、九月一〇日と調停委員会の調停期日が開かれた。

19  この間、申立人はしばしば学校に行つて事件本人やマドレーヌに会つたり、自分のところに連れてきたり、食事をさせたりした。事件本人が週日に申立人と会つた時は帰宅が遅くなり、相手方の妻葉子がその理由をただすと、先生と補習をしていたとか、宿題をしていたなどと述べていた。同年六月下旬ころ葉子は相手方との確執と健康上の理由から約一週間実家に帰つていたが、その間は事件本人のほうから頻繁に申立人に電話したり、申立人方に行つたりした。相手方はその事実を知つて激怒し、事件本人には申立人と会うことを厳禁し、葉子の実家に電話して帰宅を催促し、電話口でマドレーヌをぶつて泣かせ、泣声を聞かせたりした。事件本人は父母同伴での学校の遠足には母である申立人に連絡をとり、申立人が遠足に参加したこともあつた。

20  同年八月二九日相手方の妻葉子は申立人主張のとおり不慮の死を遂げ、同年九月三日相手方は事件本人とマドレーヌをアメリカ合衆国に連れて行き、これよりさきオレゴン州ポートランド市に転居していた実兄ロバート・デビッドソンに養育を託し、相手方だけは直ちに日本に戻つた。そして前記九月一〇日の調停期日に相手方は自己の申立にかかる子の監護に関する調停事件を取り下げ、申立人からの申立にかかる本件調停事件は調停不成立となり審判手続に移行した。申立人は申立の趣旨として「相手方は事件本人を申立人に引き渡せ」との主張を追加した。

21  相手方は兄ロバートに対し二人の子供の生活費として毎月一〇万円を送金するほか、医療費、衣服費等は別途に負担している。相手方は一九七四年(昭和四九年)一二月二一日アメリカへ行き、兄ロバート方に滞在して子供たちと共に年末を過ごし、一九七五年一月五日日本に戻つた。一方、申立人も一九七五年二月二一日アメリカへ行き、三日二晩ロバート方に滞在して事件本人キャサリンの誕生日を共に過ごしたのち日本に戻つた。申立人はロバート方における事件本人の生活状態について不満を感じてはいない。そして申立人は一九七五年五月七日ルイ・ハーウェルとの間の男子を出産した。

(当裁判所の判断)

申立人、相手方および事件本人は、いずれもアメリカ合衆国の国籍を有するもので、申立人および相手方はそれぞれ日本に住所を有するが、事件本人の現在地はアメリカ合衆国オレゴン州である。未成年者の監護その他その福祉の増進に関する問題については未成年者の住所地の裁判所に管轄権があるとするのが各国国際私法の原則である。しかしながら事件本人たるキャサリンがアメリカ合衆国オレゴン州に所在するに至つたのは、その父であり監護者である相手方がアメリカ合衆国オレゴン州に住所を有する相手方の兄ロバート・デビッドソンに一時的にその養育を託したことによるものである。未成年者は通常独立して住所を設定しえず、特段の事情のないかぎり監護者の住所にその住所を有すると見るのが合理的であるから、事件本人キャサリンの住所も日本にあるというべきである。したがつて本件については日本の裁判所が裁判権を有するというべきである。

未成年者の監護に関する問題は親子間の法律関係に属するものと解されるから、法例二〇条により父の本国法を適用すべきものであり、法例二七条三項によりアメリカ合衆国ニューヨーク州法によることになる。ニューヨーク州法によれば、離婚裁判所のなした子の監護に関する裁判を、子の福祉のための必要により変更することができるとされており、外国裁判所のなした離婚判決に伴う子の監護の決定についても同様であるとされているから、ニューヨーク州法の適用によつて、日本の家庭裁判所の調停で定められた事件本人についての監護に関する事項を変更することは許されると解される。ニューヨーク州法を含め、総じてアメリカ法における子の監護Custodyに関する問題は、主として子の身上監護に関するもので、裁判所は監護の決定とともに監護者とならない親の面接交渉について裁判すべきものとしており、わが民法上の親権よりも狭く、親権の内容の一部である身上監護権の概念に近いものと考えられ、しかも本件は一度なされた監護決定の変更を求めるものであるから、本件申立は結局わが家事審判法九条一項乙類四号の監護者の変更その他必要な処分を求める申立に該当する。

よつて本件につき事件本人キャサリンの監護者の変更その他然るべき処分を定める必要の有無を判断するに、前段までに認定した事実のほか、相手方および申立人がアメリカに行き事件本人を訪問した際の写真、事件本人から相手方および申立人に寄せられた手紙類、当事者双方審問の結果を総合すると、なお次の事実が認められる。

相手方の長兄ロバートは先妻と離婚し、一九七二年ころ子供のある現在の妻と結婚し、その子供(本年九歳の男子)を養子としている。先妻との間の子供は三人あつて、一番上の子は三三歳であり、すでに全員が結婚している。ロバートは室石デザイナー会社の共同経営者であり、宝石デザイナーとしてはアメリカで一流である。現在の妻は一九七五年四月ロバートの子を出産した。事件本人キャサリンも異母姉マドレーヌもロバート夫婦およびいとことよく親しんでいる。キャサリンもマドレーヌもパブリックスクールに通学している。日本にいるときはマドレーヌがキャサリンの母親代りの位置にあつたが、ロバート方では伯父伯母が面倒を見てくれるので、日本にいるときより遙かによい生活をしており、申立人が一九七五年二月事件本人キャサリンの九回目の誕生日に訪問した際にも、その生活の状況を見て安心して日本に戻つている。マドレーヌが一九七四年九月申立人の誕生日に送つた手紙にも、キャサリンもマドレーヌも楽しい生活を送つているとしてその実情が書かれている。

前掲当庁昭和四九年(家イ)第一二七二号子の監護に関する処分調停事件における当庁家庭裁判所調査官大須賀朝子の調査報告書によれば、昭和四九年六月二四日の面接調査において申立人の夫ルイ・ハーウェルは申立人が事件本人キャサリンを手許に引き取ることに賛成し、申立人に協力する意向を示したし、同人はおだやかで円満な人柄であり、合弁会社の技師として月二〇〇〇アメリカドルの収入があることが認められ、また同年六月二六日の事件本人への面接調査の結果によれば、事件本人は母である申立人を慕う気持が非常に強く、自由にたびたび会うことを希望したが、継母葉子にも同情的であり、異母姉マドレーヌにも親近感を有しており、直ちに父である相手方の許を出て申立人方に同居したいという程の切実な気持ではないことが認められている。

申立人と相手方が当庁昭和四八年(家イ)第四三三四号夫婦関係調整事件の同年一一月一六日成立した調停により離婚するに至つたのは夫婦の間の回復し難い破綻による約一〇か月の別居ののち、双方が離婚を希望したことによるものであり、当時七歳の事件本人の監護者を父である相手方と定めたのは、父である相手方において子を手放したくない気持が強く、母である申立人において事件本人を引き取り養育しうるだけの諸条件が充たされていなかつたことによるのであるが、相手方が申立人に事件本人と面接交渉するについて比較的寛大な条項を取り決めることに同意したのは、相手方は申立人が当時ルイ・ハーウェルと結ばれるような状況にあつたことを知らず、観光ビザで日本に滞在している申立人は近い将来に韓国に渡航するかアメリカ合衆国へ帰国するかのいずれかの途しかないと信じていたからである。このことは右調停条項の文言自体からも窺われる。

相手方は本件調停係属中の一九七四年九月、事件本人と異母姉マドレーヌをアメリカ合衆国オレゴン州ポートランド市に住む実兄ロバート・デビッドソン方に連れて行き、同人に養育を託して現在に至つている。申立人は事件本人の監護者を父である相手方から母である申立人に変更することとし、事件本人の引渡しを求めており、申立人の夫ルイ・ハーウェルは申立人が事件本人を手許に引き取ることに賛成し、申立人に協力する意向を示している。

しかしながら事件本人は出生以来異母姉マドレーヌと共に育ち、時にはマドレーヌが事件本人の母親代りともなつて相親しんできている。現在伯父ロバート方において両名とも安定した生活を送つておりり、ロバートの家族との折合いもよい。申立人は事件本人とマドレーヌの生活費、教育費等の相当額をロバートに送金しており、自らも時に帰国して事件本人およびマドレーヌと面接している。またロバートは事件本人の母である申立人が渡米して事件本人に面接した際もあたたかくこれを迎え、決してこれを拒否するようなことはなかつたし、申立人もロバートを信頼し同人が事件本人を監護養育している状況について不満を有してはいない。

一方、申立人はルイとの間に男子をもうけるに至つている。このような状況のもとにおいて、事件本人の監護者を相手方から申立人に変更し、事件本人を申立人の直接監護のもとにおくことを相当とする特段の事由は認められない。相手方が事件本人とマドレーヌをアメリカの実兄方に預けたのも、三度目の妻であり子供たちの継母であつた友田葉子の不慮の死による衝撃を考慮してのことと認められる。

以上の説示のとおりであつて、事件本人の監護者を相手方から申立人に変更する必要性は認められないが、前記調停において定められた面接交渉の条項については、すでにその前提とされた諸般の状況が推移しているのであるから、これを現状に即して変更する必要がある。相手方は申立人が事件本人と面接交渉することが子の利益に反するとの趣旨の主張をしているが、監護者とならなかつた親は子を訪問する権利を有するのであり、事件本人も母である申立人と面接することを望んでいるのであるから、申立人が事件本人と面接交渉する権利を喪失させることは相当でない。

よつて、前記調停において定められた子の監護に関する処分の部分を変更し、新たにその内容を策定することとし、主文のとおり審判する。

(家事審判官 田中恒朗)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例